そのとき、岡宮さんの最期に関しては行動調書を見て書きました。
岡宮さんは8期生として予科練に入隊していますが、いつからか9期生と合流したようで、9期の霞ヶ浦航空隊時代の末期(15年11月初ごろか?)の写真から一緒に写っています。そこから飛練卒業(木更津大型機操縦)まで一緒に写っています。
9期生全員の顔とお名前がわかったあとも、ずーっと、どなたかわからない状態が続いていたのですが、18年の5月の初めでしたか、Kさんが「8期の岡宮祐さんではないか」とメールをくださって、わたしもKさんから提示された情報を見て「そうにちがいない」と思ったのでブログに書いたというわけです。
ここから先はたぶん、ブログには書いていないままになっているんじゃないかと思います。
検索しても出てこないので。
じつはですね、ブログに書いたひと月後、岡宮さんのご遺族の方がブログをご覧になられたとかでメールをくださったんです。
岡宮さんのことを頻繁に検索されていたのか、それともたまたまそのときに検索されたのかはわからないのですが、書いた直後に連絡をいただくとやはり「お導きに違いない」と思ってしまいます。
行動調書や『予科練外史』(倉町秋次)の記述では岡宮さんは機上戦死したことになっています。
操縦員ですが中攻なので操縦員はメインとサブといて、たとえばどちらか一人が操縦不能になったとしてももう片方が健在であれば飛行機は飛びます。
17年11月12日、ルンガ泊地攻撃の703空・岡宮機は主操縦の岡宮さんが機上戦死した後、副操が操縦し、島に不時着。岡宮さんと同じく機上戦死の梅沢飛長がその地に埋葬された、と理解していました。
しかし、ご遺族の方から聞いた話は違いました。
岡宮さんは不時着時、まだ生存していたそうです。
その後、ペアに最期のことばを残して亡くなったとのことでした。
そのことを戦後、岡宮家に伝えに来てくれた人がいたそうです。
岡宮さんが戦死したときのペア、主偵察員の島崎馨さん(甲3)です。
そのときのことは新聞記事にもなったそうです。
先日、Kさんに『予科練外史』をお借りして読んでいたのですが、前回借りたときに岡宮さん関連の記述を見落としていたことに気づきました。
岡宮さんの戦場での日記が引用されていたのです。
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