松沢正二さんの最期 追記
2017-08-15


※2223に一部訂正追加しました

禺画像]

一昨日書いた松沢さんに関する投稿をご覧になられたとかで、Kさんがメールをくれました。


Kさんは、松沢さんの最期に関するより詳細な情報をお持ちでした。


当時、松沢さんと同隊だった板津辰雄さんの戦後の手記『大空の鷹』です。
そこに松沢さんたちが遭難したときの記述があるとご教示いただきました。


19年1月25日、松沢さんは木村武雄飛曹長(操練35期)操縦の彗星の偵察員として、板津さんたちと一緒に松山から三重に向かっていたようなのですが、悪天候のため途中ではぐれたようです(瀬戸内海東部あたりか?)。
手記の内容やKさんのご教示から、木村隊は3機小隊ではぐれてしまったようです。

板津さんの小隊(3機)は結局、紀伊半島を突っ切ることをあきらめて、迂回し(おそらく紀伊半島南端をまわった?)10時20分、無事に三重空に到着。残り2機も無事。

しばらくして、木村飛曹長たちが大阪の伊丹飛行場に降りているという連絡が入りました。

昼食後も天候が回復しそうになかったため、「明朝天候の回復を待って帰れ」という連絡をするために伊丹に連絡を取ったところ、すでに出発したあとでした。

出発したのは彗星2機。
1機が伊丹着陸時に脚を折ってしまったため、その機の管理のために偵察員が一人伊丹に残り、搭乗員5名が2機の彗星で三重を目指して出発したようです。
1機は木村飛曹長と松沢さん、もう1機に3人(樋口久義上飛曹、尾崎二郎上飛、甲把英行上飛)が乗っていたみたいです。


夜に入っても連絡なし。

事故以外にはないという判断で、和歌山県と奈良県の県警に連絡。

三日後に奈良県警から連絡があり、

「三日前の午後二時ごろ、裏山の山頂に落雷のような音を聞いた」

ということで、村の消防団、青年団に依頼して山中を探している、と。

翌日?の早朝から板津さんたちも上空から飛行機で捜索してみたものの、見つけられず帰隊。

その日、午後1時40分ごろに遭難機2機を発見。

『標高二〇〇〇メートルの山頂付近に二機ともに激突し、機体は大破、・・・・中略・・・・、あとわずか五〇メートルの高さを交わすことができなかったらしい』



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[乙9期]

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