坂田清一さんと特攻
2014-11-27


前にちらと書きましたが。

ちょっと一回まとめておきます、坂田清一さんと特攻。

わたしは9期生で特攻に関わったのは、20年5月4日に台湾から出撃した第十七大義隊の直掩で戦死した大石芳男さんと、布告は出ていないけれど20年8月15日、玉音放送後に宇垣長官のおともをして沖縄に行って還らなかった遠藤秋章さんだけだと思っていました。
あと松本勝正さんも敷島隊の直掩をやっているって記録がありますから、関わった、といえるでしょうか。



先日、坂田さんの姪御さんから連絡をいただいたのをきっかけにして、戦史研究家のYさんにいろいろご教示いただきました。

坂田さん、小瀬本さんの手記に出てきます。マリアナ沖海戦時は小瀬本さんのペアの偵察員でした。

どこで離ればなれになってしまったのか。
小瀬本さんは比島沖で瑞鶴が沈んだときは瑞鶴に乗っていたようなんですよね。
坂田さんは前日に別のペア(土屋光明上飛曹・乙13)と発艦して、比島に着陸。

小瀬本さんの手記を読む限り、11月にK5で比島進出したときには坂田さんはいないような?




Yさんに教えてもらった坂田さんの足跡。

「神武特別攻撃隊」

光人社の『特別攻撃隊の記録<海軍編>』によると、
『昭和19年11月、愛媛県の松山基地において再建練成中の、第一航空艦隊隷下第601航空隊が担当して編成された戦闘爆撃機、直掩戦闘機、艦爆からなる特別攻撃隊「K」部隊と呼称され、残存空母「天城」に搭載されて、洋上より発進、敵機動部隊に奇襲特別攻撃を加えることを想定し練成にあたったが、作戦上の問題点が多く中止された。
12月10日、フィリピン派遣部隊として戦闘爆撃機12機、直掩戦闘機12機、誘導機6機、計30機、36名(予備零戦6機)を編成。指揮官に青野豊大尉(海兵70)が補され、同隊は神武特別攻撃隊と命名された』

そこに、松山基地での神武特別攻撃隊の集合写真が掲載されています。

ずっと前から持っていた本ですが、まったく気づいていませんでした。
「坂田上飛曹」
誘導機の隊員(マフラーで色分けされている)として、はっきりと坂田さんだとわかる状態で写っていました。

その後、神武隊は比島で金剛隊と名を変えて201空から出撃しています。12月から1月初にかけて。
坂田さんも誘導機として出ているんじゃないかと思うのですが、わたしにはわかりませんでした(編制表などの資料が見つらけられない)。


ちょっと余談ですが。
隊長の青野大尉。
愛媛の人なんですよね。
前に西条・今治を案内してもらったとき、車で移動中に、
「そこが青野大尉の実家ですよ」
と教えてもらったことがありました。





その後坂田さんがどうしたか不明ですが、九期生名簿の思い出には、3月末に坂田さんが台湾の新竹にいたって記述があります。

「昭二十年三月二十九日に君は新竹基地の彗星隊の一番機で白鞘を抱いて従容として飛びたった。すでに期するものがあったのであらう」

これを読んだとき、なんだかすごく嫌な気分になりました。
まるで特攻出撃でもするようなシーン・・・・。

いまから思うと、これは特攻出撃だったのかもしれません。

ちょっと時期が違うのですが、Yさんが教えてくれた資料の中に、坂田さんが4月28日に新竹から沖縄方面に向けて特攻出撃した編制表がありました(攻撃一○二飛行隊戦闘詳報 石垣島東方海面敵機動部隊索敵 特別攻撃)。


機体番号 忠‐一八
操縦 土屋上飛曹
偵察 坂田上飛曹
脚入ラズ引返シ取止ム

6機出撃して、1機が消息不明、特攻戦死です。
20年4月28日の忠誠隊(彗星)。
国房大文夫中尉(操縦、予13)

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[乙9期]

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