愛知県出身。偵察専修。
艦攻の電信員です。
野田さんは、雄翔館に氏名入りの遺影があったので、それをもとに探しました。
東京行軍
横須賀海軍航空隊
香取神宮
霞ヶ浦海軍航空隊
鈴鹿(飛練・偵察)卒業アルバムから
17年2月の航空母艦・祥鳳の飛行機隊戦闘行動調書には、97艦攻の電信員としてお名前があります。
戦闘機18機、97艦攻9機と、大所帯ではありませんが、そこに9期の偵察員が4人もいました。
野田実3飛曹、大塚孝平3飛曹、益田増雄3飛曹、繁富悦行3飛曹。
さそ心強かったことでしょう。
野田さんが指揮官機の電信員で、残る3人は偵察員の配置。
17年5月8日 祥鳳 ニューギニア方面
ブログの9期生戦没者名簿にこう書いていました。
9期生生存者が昭和40年に編集した『九期生名簿』、雄飛会が出している9期戦没者名簿にもそう書かれてあったからです。
でも、珊瑚海で祥鳳が沈んだのは5月7日。
当日の飛行機隊の行動調書が見つけられず、野田さんの戦死状況がわからずにいたのですが、先日借りて読んでいた『予科練外史』に、珊瑚海のときも同じ艦に乗っていた大塚孝平3飛曹が、後日、倉町先生に宛てた手紙の文面が掲載されていました。その一部です。
『ハワイの時には勝って勝って面白い戦争でしたが、今度は、この戦いの第一の犠牲となって自分の母艦「祥鳳」は敵の猛烈な集中砲火を受けました』
※この手紙の注に、「(ハワイ・真珠湾攻撃に)大塚は「翔鶴」の搭乗員として参加」とありますが、行動調書にお名前はありません。翔鶴の搭乗員ではあったけれど、攻撃には参加しなかったということでしょうか。
『自分の艦も、攻撃準備成って、さあ!という時に一歩早く敵が来たのです』
『艦首は砕かれ、艦が傾斜して来た時でも、いや、自分の艦は絶対に沈むようなことはない、と最後まで思って居りました。勿論そのころは、火煙に包まれ、戦友の屍で大変でした。益田増雄、野田実、繁富悦行も一緒にいたのですが、いつの間にか見えなくなってしまった。どうしただろうと気になるのですが、どうすることもできません』
その後、第二段の爆撃が大塚さんの近くで炸裂。大塚さんは海中に吹き飛ばされてしまいました。
結局重油の海を9時間半漂流して救助されたそうです。
『益田も繁富も、傷一つなく助かりましたが、野田は運悪く爆弾の直撃でやられてしまったのです』
ということであれば戦死日は確実に5月7日。
搭乗員の経歴に精通している知人からもらった資料には野田さんの戦死日は「5月7日」と書いてありました。
17年5月7日 祥鳳 珊瑚海海戦
に訂正します。
おもいで
『女学生の様な柔和な顔、それでいて大男。君の手は俺の二倍位あった。大仏のような手をしてモールスがうまかった。羨ましいよりにくらしい手だと思った』
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