2009-03-26
ラバウルではほとんど被弾した形跡の見られない西澤さん。
18年11月に飛曹長に進級して、大分空で教官任務に就いたということですが、ここらへん、ママ調査が行き届いておりません。
19年春には厚木空(? のち203空)に転勤し、戦闘303飛行隊に所属。
北千島の防空任務にあたります。
北千島時代はほとんど空戦はしていません。
というか、もしかしたら、1度もないかも?
ラバウル時代に比べると、ほとんど出撃もしていないような状況です。
たま〜の搭乗で西澤さんが敵機を見かけたのも1度きりだと思われます。
行動調書には19年6月15日、第一幌筵基地から発進して、B25を「畑霧の中に逸す」とあるのですが、「畑霧」って、何でしょうか? ちょっと不明。
この件に関しては、渡辺洋二氏が文春文庫の『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」の中で、
「かつてラバウルのトップエースといわれた203空・戦闘第303飛行隊の分隊士・西澤廣義飛曹長も、6月15日に会敵したPV-1を、うすい雲の中とはいえB-25と見誤っている。
じつはB-25は航続力の関係で、西部アリューシャン周辺の哨戒任務ににまわされ、年が明けてから5月に1回来襲しただけだった。したがって、6月以降、北千島に現れる双発・双垂直尾翼の敵機はすべてPV-1なのだが、もちろん日本軍がそれを知るはずはない」
と書いてます。行動調書のB25は、西澤さんがPV1を見間違えたらしいです。
まあ、ママにとってはB25でもPV1でもどっちでもいいってことで(^o^)!
とにかく、西澤さんは北千島では空戦もせず、被弾も無し。
その後、夏には内地に戻ってきますが、戻ってきてからの足取りが不明。
9月末に茂原で自慢大会に参加していたことは確認されているので、これ以降に鹿児島に移動して、10月中頃台湾沖航空戦? それから比島へ。
次に確実なのは10月25日の敷島隊の直掩。
このとき、西澤さんは敷島隊が突入した空母上空で、特攻隊の掩護をしながらもグラマンを落としたということですが、この際、被弾したかどうかは不明。
発進したマバラカットに戻らず、セブに降りていることから、もしかしたら、西澤さん自身か、あるいは列機のだれかが被弾したために、セブに不時着したのかな・・・・?
西澤さんの飛曹長時代は、あまり空戦をしていません。
確実なのは戦死の前日の↑これだけです。
翌日、マバラカットに戻るために輸送機に乗ってしまった西澤さん・・・・。
タイムマシンがあれば、その場に急行して、
「それに乗ったらあかん!」
と言ってあげたい・・・・。
「あなた、戦闘機乗りでしょう!」
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