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同じ画像を何回も使い回してすいません(^_^)ゞ
さて、西澤さんの空戦談が聞きたくてたまらなかった予科練の先生、かれの重い口を開かせるために、ちょっと攻め口を変えてみました。
「危ない目にもたびたび遭ったんだろう?」
西澤さん、
「ええ、2度ばかり、いまから考えると危なかったと思ったことがありました・・・・」
と答えたきり、続けようとしません。
「どんな目に遭ったのかい?」
西澤さん、重い口を開きます。
@敵追撃中に風防がパンパンと割れたのでひょいと見ると真後ろに敵が2機ついていた。エンジンを5カ所ばかりやられたが、全部急所を外れていて助かった。
Aやはり敵追撃中に斜め後ろから奇襲をかけられた。燃料タンクを3カ所撃ち抜かれ、本人も火がつくと覚悟。他の敵にまで追いかけられ、6000メートルから海面すれすれまで急降下してかわし、そのまま突っ込むと自爆を覚悟したが、うまいこと機首の引起こしができて助かった。
基地に戻って調べてみると、燃料タンクを撃ち抜いていた敵弾は徹甲弾だけで、曳痕弾(←これは火がつくらしい)はなかった。
これらの話、具体的にいつの話かわかりませんが、Aの話をする時に西澤さんは「これもブインにいた時ですが・・・・」と言っていることから@もAも251空がブインにいた時の話だと思われます。
251空戦闘機隊がブイン基地から出撃しているのは、行動調書上は18年7月1日からのようです。
西澤さんは連日のように出撃しているのですが、この頃、251空は撃墜戦果だけではなく、被弾機も個人記録していないため、いったいいつ西澤さんが危機一髪だったのかわかりません。
とりあえず、西澤さんがブインから参加した出撃で、隊に被弾機が出ているのは、
7月13日(「神通」上空哨戒)
7月25日(レンドバ方面敵機蕩掃並びに舟艇掃射)
8月7日(レンドバ港敵艦船攻撃艦爆隊直掩)
の3日だけです(期間は7月1日〜8月31日←251空戦闘機隊はこの日をもって解散・他隊に編入)。
おそらく、この3日のうちに、西澤さんが「危なかった日」が含まれるものと思われますが、特定できませんでした。
ついでに253空(251空の次の勤務先)での被弾状況を見てみたところ、病気でもしていたのか、253空での初出撃は9月24日、ラバウルからの中攻隊直掩。
(この前の出撃は251空の8月23日が最後。ひと月空いているわけです)
・・・・復帰戦でいきなり西澤上飛曹「被弾」・・・・(>_<)
このあと、253空も個人の被弾記録をとらなくなり、追跡不可能なのですが、参考までに、この日以降、西澤さんが大分空に転勤するまでの9月10月の西澤さん参加出撃時の被弾機は、
10月1日 3機
10月12日 2機+1機
10月15日 1機
10月17日 6機
10月18日 1機
10月24日 5機(4機?)
となっています。もしかしたら、この中に西澤さんが含まれているかも知れません。
しかし、いずれも「ブイン」からではありませんので、西澤さんが先生に語った「危なかった日」はやはり251空時代のあの3日のうちの2日だと思われます。
@もAも本人談から察するに、まったく背後の見張りを怠っていたような状況・・・・。西澤さんほどの人が・・・・。
墜とされなかったのはまさに「運がよかった」からでしょうか。
ご無事でよかった・・・・
注:今回は251空、253空時代を見ただけで、千歳空、4空、台南空、203空時代は全く調べていません。
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