前列右端。
みなと一緒に写っている写真を見ると、大柄な人ではないです。
が、水泳も角力もイケたらしい。
植松さんは早いうちから「この人が植松さん」とわかっていました。この写真↓
鈴鹿での飛行作業の様子だと思います。
出発前か終了後の申告?
装備やお顏から左2人が教員、右2人が練習生。
右端が植松さんで、その隣が本間秀人さんです。
この写真の植松さん、救命胴衣の名札が見えていて「植松一空」と書かれているように見えます。
大型機講習木更津。
「おもいで」
昭和十九・十月だったと思う、七五二空(当時ルオット)で頑張ってゐた、一式陸攻に電探を装備して東太平洋での夜間攻撃に終始してゐたね。赤銅色の童顔がひしひしとマブタに浮ぶ。
俺も角力ではかなり自信があったが、君には喰下がられてよくひっくり返されたものだ。而も鈴鹿では角力部が大量得点、優勝に貢献した。
同郷の人。英語のときはよく眠っていたな。ビームさがりでは要領よくやっていた。スモウでは光っていた。
一番上の人が「752空」と書いていますが、わたしはこれは把握していません。わたしが調べた限りでは、植松さんは元空→755空で、戦死時も755空だったのでは。
時期も勘違いされているようですし・・・・。
19年7月11日 755空攻撃701飛行隊 南洋群島方面
『在大宮島搭乗員迎へノ為七月十日二一三五「トラック」春島基地発進十一日〇一三〇大宮島第一基地着(転進ノ為鏡味大尉他十五名搭乗)〇二〇五「トラック」ニ向ケ帰投ノ為同基地発進後連絡無ク未帰還所在不明トナル』
所属は755空攻撃701飛行隊。
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